五感でみつける 目で感じる
あえて正解のない世界。
まだまだ暑さも社会情勢のざわつきも収まらないまま初秋を迎えようとしていますが、最近わたしが始めた活動のひとつは、年代やジェンダーや文化や業種・・・様々な枠組みを超えて、ただただ自由にアートを楽しみ、その力を掘って見つけて何かしらかたちにして新しい価値観のコミュニティを創っていこう。というアートによるまちづくりのプロジェクト。
地方都市ではありますが野外彫刻が街中に200点超ありまして、そうした街の個性をもっと活かして、市全体を美術館と考え、参加者自身が主体的にまちづくりのプレーヤーとして活動を展開してゆきましょう、という取り組みです。
家でも学校でも職場でもない場所―いわばサードプレイスという空間で、いわば異質の者同士がどんな化学変化を起こしていくのか。
それはいわば「正解のない世界」に足を踏み入れることでもあります。
先日このプロジェクトに関連したシンポジウムがあったのですが、登壇者のある先生が、「芸術作品を観ることと、作者の意図を当てることは全く別問題だと思っている。」と仰ったとき、これまで常々「教養」として向き合う芸術と「純粋に味わう、愉しむ」芸術というのは似て非なるものだと感じていたわたしとしては、大いに共感し、思いきり膝を打ってしまいました。
知識は絶対的。という考えが世の中的に主流なのは否定しないのだけれど、感受性の範疇まで知識の競争が幅をきかせることへの違和感といいますかーそう、答えを探しまくる世界に正直食傷気味だったのです。
これはアートに限ったことではなく、わたしが日々関わっている異文化とのコミュニケーションの場面でも、ふと見渡してみると相手と会話した際、その人の話している中身よりも発音や文法の良し悪しが先立ち、その人の考え方、人となりーそういった本質がすっぽり抜け落ちてしまう。そういう傾向があったりします。
答えってあったほうが気持ちがちゃんと着地して確かにすっきりするのだけれど、どう感じるか、というハートの部分を発動する時間をあえて蓄えることも豊かで尊いこと。(ときにもどかしかったり葛藤もあるのだけれど・・・。)
今回はアートや語学の例えで書いてみたけれど、こうした「あえて正解を探さない時間」をもっと日常に探してみたいなあと思う今日この頃。
あえてゆっくり、あえて時間をかけて感性の扉を開きながら心地よい秋を迎えたいものです。
2020年9月2日 ●
Miki
English Lab/ doers(ドアーズ) 主宰。完璧さよりも小さな一歩を応援するパーソナルイングリッシュコーチ。文章やコーチングレッスンをとおして、心を整えきらめく日々を提供できたらと探求する日々
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